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Kanako Kitahara's Blog

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「青黛」の歴史ー全国に先駆けて取り組んだ弘前藩士族

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昨日のブログで、薬理効果を持つ「青黛」について書きました。今日はその歴史について書いてみます。

藍商人の商標看板(四国大学「藍の家」所蔵)

藍商人の商標看板(四国大学「藍の家」所蔵)

明治初期の工業記録によると、この「青黛」は、明治8年頃から日本で製造されるようになったとされています。日本の藍と言えば、徳島の阿波藍が有名です。米が中心だった近世日本社会でも、流通網の整備などにより各地で商品作物を作るようになりますが、徳島は藍生産の本場になりました。品質の高さで知られ阿波藍は、品質を保つための藩の制御も行き届いていました。

しかし、近世から近代にかわり、廃藩置県などでさまざまな環境が激変すると共に、阿波藍の品質をたもった販売ネットワークも崩れてきます。そして、徳島だけではなく、各地で藍の品質を高めるための取り組みも行われるようになった中で注目されたのが青黛でした。

明治8年にヨーロッパの製法をまねて、日本の蓼藍とヨーロッパ藍植物であるウオードを植えてみたものの、なかなかうまくいかず、9年にどうにかめどが立ってきた、という状況だったようです。青黛は漢方薬でもありますが、染料でもあり、天然藍染の液にまぜて使ったりしたようです。

ということで、国内で明治9年に製造のめどが立った青黛を、全国に先駆けていち早く明治10年に製造し、純益金を出した地方がありました。それが津軽です。発酵を主体とした天然藍染がなかなかうまくいかなかった津軽地方では、元サムライたちが、生の藍から藍の色素を沈殿させ、発酵させないでつくる青黛に注目し早速取り組んだようです。

「青黛」の原料となる沈殿藍製作中

「青黛」の原料となる沈殿藍製作中

 

明治10年の7月には、青森県初の新聞である『北斗新聞』に製造方法が載ります。当時の新聞は、読める人が限られてましたが、元サムライたちが読んだものと思われます。明治10年の8月には、弘前の東奥義塾で先生をしていたアメリカ人のジョン・イングが故郷の父に宛てて「今、藍を作ってみている」と書き残した手紙も残っています。イングはサムライの子供たちを教え、サムライたちとも交流がありました。なにより、『北斗新聞』の編集者たちとも交流がありました。もしかしたら、藍のことを彼らから聴いたのかもしれません。

明治10年刊行の『北斗新聞』(東奥日報社刊行『青森県百科事典』p.838)より転載

明治10年刊行の『北斗新聞』(東奥日報社刊行『青森県百科事典』p.838)より転載

以上の内容は、津軽藍の歴史についての研究を進めた中で、最近わかってきたことです。3月末発行予定の『青森中央学院大学紀要』23号に掲載する「近代津軽地方における藍の改良開発をめぐる諸相—明治10年代前半の弘前藩士族の取り組みを中心にー(仮題)」の中で書きました。刊行になりましたら、もう少し詳しく紹介したいと思います。

なお、「青黛」の薬理効果については、昨日(2015年2月27日)のブログをご覧下さい(以下のURLです)。

薬としての藍(藍の薬理効果)のお話

藍の畑と岩木山

藍の畑と岩木山

 

 

 

 

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