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Kanako Kitahara's Blog

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アーサー・C. マックレーの命日

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本日、11月11日は、アーサーC. マックレーの命日です。

マックレーは、1874年に弘前の東奥義塾で教師をした人物で、キリスト教プロテスタント・メソジスト派の宣教師ロバート・S. マックレーの次男として1853年8月14日に香港で生まれ、1930年11月11日にアメリカのニュージャージー州プレンフィールドでなくなりました。

1873年から5年ほど日本に滞在し、弘前、東京、京都で教師をした経験をもとに帰国後日本体験記を書いたり、弁護士業の傍ら、日本紹介活動をしたりしています。

このマックレーについて調査をしていた時の、資料との不思議な出会いは、いぜんこのブログで書いたことがあります。→資料との不思議な出会い

 

1930年11月11日に此の世をさることになるマックレーは、そうとは知らず、1874年の11月11日に弘前をさります。馬に乗ったマックレーのそばには、東奥義塾生たちが付き添いました。若かった彼の胸に深く刻まれた別れのシーンを、ここにご紹介しておきますね。

私たちは、朝の光の中、弘前を離れました。うっすらと雪がつもり、道路はぬかるんでいました。学生たちは、町から2マイルほどのところまで私と共についてきて、そして立ち止まり、一人が一歩進み出て、英語でスピーチをしてくれました。

彼は、学校を代表して、彼らに対する私の親切や指導について感謝の意を表すと共に、ここ(弘前)がとても寂しい場所であることを案じて、私ができるだけ快適に過ごせるよう、彼らとしても最大限の努力をしたこと、これからの旅が楽しいものになることを願うと話してくれました。

突然のスピーチでした。彼らがこちらを見上げる彼らの目が潤んでいるのを見た時、私は深い感動を覚えました。彼らは、半円形に並んでたち、足首まで泥に埋まりながら、凍えような寒さの中に立っていました。どの顔も、心からの別れの悲しみにみちていました。

(Malay, A. C., A Budget of letters from Japan: Reminiscences of Work and Travel in Japan, A.C. Armstrong &Son, 1886, p126.)

別れのあいさつを受けたマックレーはそれにたいして、心からの感謝の意を表して、その場を離れます。何度か、マックレーは振り返ります。彼らはずっとその場に立ち尽くし、マックレーが見えなくなるまで見送っていました。

この場面は、日本人の心性にふれたような、そんな体験となり、若いマックレーの胸の中に深く刻まれたようです。深い味わいのある場面となっています。

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うっすらと雪化粧した岩木山と津軽平野

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