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Kanako Kitahara's Blog

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津軽三味線ー青森県史の世界から

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青森県では『青森県史』を編纂しています。このブログでは、青森県の文化の歴史についても、いろいろご紹介して行きたいと思います。

本日は『青森県史資料編 近現代6』や『青森県史資料編 近現代4』をもとに、津軽三味線について書いてみます。

津軽三味線は、津軽地方の三味線音楽で、盲目の男性芸人であるボサマたちが、村から村へと渡り歩いて三味線を弾き日々の糧を得る(門付け)中で、発達してきたものです。津軽は民謡の宝庫でもあり、三味線はもともと民謡の伴奏楽器としても使われていました。

ところで、津軽で民謡が盛んになった背景には、東奥日報社の存在も関わっています。東奥日報社では、特に昭和初期から、文化を支える諸活動をしました。たとえば、昭和9年には、東奥日報の一万五千号記念として青森県民謡大会を開催しています。

この大会は、最初に県下12カ所で予選を行い、156名の参加者の中から勝ち抜いた各地区代表の21名が喉を競いました。二つに分かれた会場は、どちらもまたたく間に満席となり、詰めかけた聴衆の熱気に包まれています。この青森県民謡大会は、優勝者にレコードの吹き込みが約束されたこともあり、毎年多くの出場者と聴衆でにぎわいました。つまり、登竜門であったわけです。

第二次世界大戦中も、戦火が厳しくなる昭和19年に中止となるまで、続けられています。そして、この頃になると、もともと伴奏楽器であった三味線も、独奏楽器としてのスタイルができてきたと、武田忠一郎という人物が、『音楽文化』という雑誌に書いています。即興詩人たちがもし指が6本あるなら、それを全部使うかもしれないほどのたくましさで、三味線奏者は歌い手と競って演奏していると武田氏は語り、三味線音楽自体が聴衆を引きつけてきた様子を伝えています。(ここまでは『青森県史資料編 近現代4』p658をご覧下さい)。

青森県史第6巻グラビアより

青森県史第6巻グラビアより

戦後も津軽三味線の音楽的伝統は続いて行きました。津軽三味線が全国的になってくるのは、高度経済成長期です。三橋美智也や木田林松栄、高橋竹山など、数々の名人たちによりその存在を全国的に知られるようになり、邦楽の世界では珍しいことながら、「津軽」という一つの地方の名前を冠した音楽としてのジャンルを確立して行くようになりました。昭和40年代半ばになると津軽三味線は、器楽曲としてだけではなく、小説や映画などでも取り上げられるようになっていきます。

『青森県史資料編近現代6 高度経済成長期の青森県』の第10章第3節では、こうした背景を基にして、高橋竹山を中心として津軽三味線を取り上げました。

高橋竹山は、東奥日報社による第一回青森県民謡大会でも伴奏者を勤めています。

竹山の演奏技術及び高い音楽性は、盲目のボサマとして門付けをして生計を立てる厳しい生活の中で培われたもので、その演奏は民謡の伴奏から独奏へと移行し、昭和38年には、津軽三味線の独奏曲を集めたレコードをだしています。

昭和39年、仙台(塩竈)労音の民謡例会に出演したことがきっかけで、竹山は各地の労音で活動をするようになり、その活動は津軽三味線の普及に貢献しました。特に昭和48年から始まった渋谷「ジャン・ジャン」での演奏は、多くの若者が津軽三味線の魅力に接する機会となりました。(これについては『青森県史資料編 近現代6』をご覧下さい)

 

今や、津軽三味線は、コンサートホールで聴く音楽となり、発祥のルーツとなった盲目のボサマたちの厳しく悲しい歴史が忘れられがちになります。しかし、それは、一方ではボサマたちの努力が芸術に昇華されて行ったとみることもできるかもしれません。

 

なにより、津軽三味線は津軽で生まれ、津軽で育まれた音楽でした。それは、凜とした空気が満ちる冬の津軽で聴く時、より、その良さが心に染みるように思われるのです。

『青森県史資料編 近現代6』については、こちらをご覧下さい

津軽・冬の風景

津軽・冬の風景

 

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