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資料との不思議な出会い

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本日、11月11日は、「ポッキーの日」だそうです。
北原研的には、「マックレーの日」です。マックレーとは、明治7年に弘前に来たアメリカ人で、半年ほど滞在していました。
この人物の資料を調査するとき、不思議な出会いがありました。ここでは、そのことをご紹介したいと思います。少し長くなりますが、2010年10月に弘前の地元新聞社『陸奥新報』の「日曜随想」に掲載された原稿を転載します。

アーサー・C. マックレー(1853-1930) 東奥義塾所蔵資料

アーサー・C. マックレー(1853-1930)
東奥義塾所蔵資料

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A.C.マックレー先生  命日に届いた資料  (「日曜随想」『陸奥新報』2010.10.10より)

アーサー・マックレーは、東奥義塾二代目外国人教師として明治7年の弘前に約半年滞在した人物である。現在の青山学院大学を創設したメソジスト派宣教師R.S.マックレーの息子として、1853年に香港で生まれた。学齢期に教育を受けるためアメリカに戻り、1873年、ウエズリアン大学1年のとき、当時両親が滞在していた日本にやってきた。それから約5年の滞在中、弘前の東奥義塾、東京の工学寮(東京大学前身校の一つ)、京都の中学校で教師を勤め、1878年に帰国した。帰国後は法律を学び、ニューヨークで弁護士をする傍ら、日本を紹介する活動を行い、晩年はニュージャージー州プレンフィールドで過ごし、今は同地で眠っている。

 

彼の活動で特筆すべきは、1886年に日本滞在中の経験をまとめた体験記(『日本からの書簡集』)を出版して、明治7年当時の弘前の様子を紹介したことである。明治10年代にアメリカで広く読まれた本の中に描かれると言うのは、当時の日本の地方レベルでは、そうそうあることではない。津軽文化の実力である。

 

さて、こうして弘前の知名度を上げるのに貢献したマックレーだが、肝心の弘前での扱いは、少々情けないものだった。彼に関する資料があまりに少ないので、「ほんとは来なかったのではないか」という声もあった。

 

私自身、最初は見当もつかなかったが、たまたま自分の指導教官がウエズリアン大学出身ということもあり、ためしに調査を依頼してみたのが、15年前の10月のことだった。この種の調査としてはきわめて迅速な対応で、11月11日に、私の手元に資料が届いた。前述した彼の経歴はこのとき初めてわかったことである。初めて手にする彼の史料を軽い興奮とともに読み進んだ私は、資料最後の亡くなった日付にしばらく目が釘付けになった。「1930年11月11日没」。

 

つまり、資料は命日に届いた。これだけでも、私にとっては感動的だったが、この話には、もう少し続きがあった。マックレーの著書には、寒風吹きすさぶ中、弘前を離れたときの様子が、日付とともに描かれている。それもまた1874年11月11日。つまり、マックレーが弘前を去った日と、この世を去った日、そして資料が届いた日はすべて11月11日だったのである。

 

これを単なる偶然と取るか、そこに何らかの意味を読み取ろうとするかは人によるだろう。私には、とても偶然とは思えなかった。マックレーからのメッセージを受け取ったような気になった私は、それ以来、ことあるごとに彼について書き、そして話すようになった。今年は没後80年となる。弘前を紹介してくれた彼に感謝を込め、あらためて冥福を祈りたいと思っている。(北原かな子)

マックレーの本に掲載された岩木山のエッチング画 (A Budget of letters from Japan, より)

マックレーの本に掲載された岩木山のエッチング画
(A Budget of letters from Japan, より)

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ここに紹介したアーサー・C. マックレーの本は、A Budget of Letters from Japan : Reminiscences of Work and Travel in Japan, (A. C. Armstrong&Son, 1886)という本です。渡辺京二さんの名著『逝きし世の面影』にも紹介されています。
そして、マックレー関係の資料は現在、プリンストン大学にも多数所蔵されています。

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