Kanako Kitahara's Blog
昨日の続編です。
「成田らく」さんのことを知ったのは、『青森県女性史ーあゆみとくらしー』が刊行された後のことでした。その本をご覧になったという田中淑子さんから「うちのおばあちゃんが、かつて弘前女学校の先生をしていた」という連絡をいただきました。それがご縁となって、成田らくさんの息子さんのお嫁さんである成田孝(こう)さんのお宅におじゃますることになりました。なお、その時の調査は「青森県女性のあゆみとくらし研究会」の「青森県女性問題調査研究」助成によるものでした。
孝さんは、当時既に80歳を越しておられたのではと思いますが、とてもお元気で、おしゅうとめさんにあたる「成田らく」さんについての思い出話をたくさん教えていただきました。また「成田らく」さんが残された資料も快く見せてくださいました。その成果は『青森県史資料編近現代1』や『写真で見る青森県女性のあゆみとくらし』(青森県男女共同参画センター、2002)にも少し掲載しています。
ここにあげたのは、成田らくさんが持っていた『輿地誌略』という本です。明治時代に世界の地理の教科書として使われたものでした。
孝さんのご説明によると、「おばあちゃん(成田らくさん)が、よい成績を収めたご褒美として学校からいただいた」ものだったそうです。
昔は教科書も貴重なもので、たとえば津軽地方で明治初期に開校した東奥義塾でも、辞書や教科書をみんなで共有して使っていました。特に英書は高価だったことから、一冊の本を各章毎に分割して、皆で回して使ったという話も伝えられています。
ちなみに、少し話がそれますが、明治9年7月15日に青森小学校で明治天皇による天覧授業が行われた時、県内から選抜された小学生たちが天皇陛下の前で先生の質問に見事に答えたことから、ご褒美として天皇陛下からそれぞれの生徒に一円ずつ与えられました。それはこの『輿地誌略』を買いなさいということだったそうです。
明治初期は、学校に行くこと自体、恵まれた環境の少年少女たちでなければできなかったことでした。そしてその生徒たちにとって、自分自身の教科書を持つということは、さらに憧れだったのかもしれませんね。