Kanako Kitahara's Blog
弘前公園の入り口にある追手門は、私的には弘前市内の中でもとても好きな場所の一つです。今日はこの門と明治初期のアメリカ人の観察記について書いて見たいと思います。
1874年頃、弘前の私学東奥義塾教師として、半年ほど滞在したアーサー・マックレーについてこれまでも何度か書きました。
日本に五年ほど滞在したマックレーは本を出していますが、その中に弘前城についての記述も入ってます。1874年秋のよく晴れた日に、内部見学の許可を取ってもらったマックレーは、東奥義塾関係者とともに城内を回り、その時の観察記を彼の本に書きました。(A Budget of Letters from Japan : Reminiscences of Work and Travel in Japan, A. C. Armstrong & Son, 1886.)
これはとても興味深い文章で、さらにその中に書かれている弘前城内の櫓や天守閣は現在も残っているので、その内容が正しいのかどうかについても検証してみることにしました。三の丸から入って二の丸を通って本丸まで進んで行く経路は、いまでもほぼそのまま確認できます。
彼は次のように書いてます。
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鉄の板でおおわれた重厚な木造両開きの扉をもった、二階建ての門が立っています。二階の方の頑丈な格子窓は、下方に攻めてきた兵隊たちにたいして、弓矢を自由に使えるようによく工夫されています。重厚に瓦でふいた切妻屋根の端からは、青銅製の魚が、勢いよく宙に向かって躍り上がっています。一方、屋根の隅の方からは、不気味な鬼[訳者注 鬼瓦のこと]攻めてくる敵を威嚇しているのが見えます。門の明るい白色の漆喰の部分が、塁壁のにぶい灰色の石や濠の水と、好ましい対照を呈しています。少し離れて、用心深く配置された松の並木を通してのぞいてみると、その外見は著しく異様なものになります
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三の丸の入り口に立つ二階建ての追手門は、マックレーが書いている通り、二階には格子窓、屋根の上には魚が躍り上がっています。が、気になったのは「不気味な鬼」でした。実際の追手門はこんな感じです。
青丸で囲んだ部分はマックレーが書いた通りですが、さて「屋根の隅から敵を威嚇する鬼」とはどれのことなのか??? そもそも、ほんとにこの門について書いてるだろうか??? などなど。しばし悩みました。
そこでアメリカ人の友人と共に、マックレーの原文をみながら城内を歩くことにしました。追手門についた時、彼女がこの赤丸部分を指差して言った一言が「顔に見える!(Looks like face!)」そして、「マックレーさんは本当の話を書いてるわよ!(Mr. Maclay wrote true story!)」
鬼瓦は、日本人であれば比較的目にするものなので、最初から「瓦」と思ってしまいますが、異国から来た人にとっては、屋根の他の瓦とは形が違う鬼瓦が「顔」に見えたりするのかなぁと、その時思いました。あるいは、マックレーがここに来た時、誰かが「鬼瓦」の由来を説明した可能性も十分あるかと思います。
かくして、唯一ひっかかっていた「鬼の顔」がどうやら「鬼瓦」だろうということで一件落着となりました。
それにしても、いかがでしょう。「鬼の顔」にみえるものでしょうか?
マックレーによる弘前城の記述は、明治七年当時の本丸御殿についても書かれています。最後の藩主津軽承昭が去った後の本丸御殿はどうなったのか、日本語の資料がほとんどない現在、これは貴重な資料となっています。次の本の中に収録されているので、ご関心のある方はぜひご覧下さい。