Kanako Kitahara's Blog
あおもり創生パートナーズ株式会社さんの機関紙であるRégion に「ヒバと藍と青森―歴史の中に魅力を探る―」を文章を寄稿しました。字数の制限がありましたので、原稿を元に書き直したものをここに紹介していきます。2回目は、ヒバとヒノキチオールについてまとめてあります。
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下北のヒバとヒノキチオール
青森県史と森林文化
ヒバは「青森県の木」であり、現在、下北地方を中心としてさまざまな活用が図られています。ヒバがもつ耐水性や抗菌性については昔から経験的に知られており、京都の二条城、あるいは奥州藤原氏の中尊寺など、国内の著名な歴史的建造物に活用されてきました。近年、その抗菌性はヒノキチオールという物質であることが解明され、さらに青森ヒバのヒノキチオール含有率は、国内に植生する樹木の中でも際立って高いことがわかっています。日本国内に植生するヒバの80%は青森県内にあります。いわば青森ヒバとヒノキチオールは、手付かずの自然が生み出した青森の特産品とも言えるわけです。
今では「青森といえばりんご」というイメージが流布していますが、ヒバを大切に思う考え方は以前からありました。たとえば太宰治は代表作『津軽』の中で、「青森を代表するのはりんごではなくヒバである」と書いています。「青い森」という県名が示す通り、長い間人々が守り育んできた自然豊かな森林は、青森の歴史にとってとても大事なものでした。『青森県史資料編近現代』各巻には、森林関係資料も多々入っています。
この『青森県史』編纂事業は、1996年から始まり、2018年に最後の『青森県史通史編』全三巻を世に送り出して終了したのですが、最後の通史編で近代の文化を担当することになった私は、青森を代表する文化として、森林文化である「ヒバとぶな」について書きました。『青森県史通史編』は2018年3月の発売と同時にほぼ売り切れてしまい、今ではなかなか手に入りませんが、県内各図書館には寄贈されています。
ヒバに含まれるヒノキチオール
ヒバの抗菌性物質はヒノキチオールです。なぜヒバなのにヒノキの名前がつくのか、その由来について説明したいと思います。青森県内でも古くから抗菌性を知られていたヒバについての研究は大正期に進められていました。しかし、この物質が発見され、その分子構造がわかったのは、戦前の台湾でした。当時の日本が領有した台湾には、昭和3年(1928)に日本で7番目の帝国大学が開学しました。本土の名古屋大学や大阪大学よりも先に設置されたこの大学は、南方研究を主としましたが、ここで昭和6年に当時の理農学部教授である加福均三先生が台湾スギと台湾ヒノキの精油に関する論文を発表しています。この研究は、その後野副鉄男教授に引き継がれ、同教授は1936(昭和11)年に初めて単独で物質だけを取り出すことに成功し、これをヒノキチオールと命名しました。つまり、発見時の実験素材として台湾ヒノキを使っていたことから、ヒノキチオールになったわけです。ただ、日本が本格的に戦時下に入ったため、研究はいったん止まります。
戦後の「接収・留用」とヒノキチオール
戦時中、台北帝国大学では軍事研究が主となりました。戦争末期になるとガソリンや選鉱油の欠乏を補うために、台湾の海軍燃料廠が台湾ヒノキから油を集めるようになります。終戦を迎えた時、日本が海外に作った帝国大学のなかでも、ソウルの京城帝国大学とタイペイの台北帝国大学は対照的な経緯をたどりました。京城帝国大学は敗戦と同時に日本人教授や学生たちがほぼ全員追い出されましたが、台湾の場合は逆でした。台湾は中華民国の領土に復帰し、台北帝国大学はそのまま台湾大学となっただけではなく、大陸から大学の接収にきた台湾政府の強い要望により、日本人の教授陣はそのまま台北に残り、研究と教育を続けることになりました。施設を「接収」して人を「留用」する中で、ヒノキチオールの研究は再開となりました。この時、同大を卒業した義父は助手として採用され、野副先生と共にヒノキチオールの研究に取り組むようになりました。
日本人の待遇も良かったそうです。台湾大学の教員宿舎には、台湾人のお手伝い(茶母)さんがいて、日本人の先生たちが生活に困らないように、いろいろと手伝ってもらったことを、義母は懐かしそうに話していました。1948年に研究室のメンバーが帰国する際には、研究成果を持ち帰る政府の特別許可がおり、この研究は台湾大学からから東北大へと継続しました。尚、引き上げ時の台湾当局の好意に報いるため、野副教授は台湾から東北大学に留学生を呼び、正式な国交がない時期もこの分野での日台交流が続きました。
ヒノキチオールの化学的おもしろさ
ここで少し、物質としてのヒノキチオールのおもしろさについても書いておきたいと思います。「化学の構造式」といわれると、化学が苦手な人は特に腰が引けてしまうと思いますが、「亀の甲(かめのこ)」と呼ばれる六角形の形は、なんとなく思い出せるのではないでしょうか。そう、正六角形の美しい形をしたベンゼン環のことで、芳香族化合物の中心物質です。そして、ヒノキチオールも芳香族化合物の一種なのですが、ヒノキチオールの中にあるのはベンゼン環ではなく、正七角形の七員環芳香族化合物です。野副先生がこの物質を特定した当時、自然界に七員環芳香族化合物があることは知られていませんでした。周りの人たちは、野副先生の発見に全く賛成しなかったそうです。「無いことが常識」の世界の中で「在ることを証明」する。私は時々、この時の野副先生の興奮や不安を想像してみたりします。これこそが化学研究の醍醐味だろうなぁと。いずれにしてもこの研究により、この世には七員環芳香族化合物が存在するとわかり、それから膨大な研究が展開されました。ヒノキチオールという物質は、化学の分野において新規かつ重要な分野が切り拓かれるきっかけとなった、大切な存在だったのです。
下北とひばとヒノキチオール
台湾ヒノキから発見されたヒノキチオールが、青森ヒバにも含まれることが具体的にわかってきたのは戦後です。青森のヒバは日本産ヒノキよりもヒノキチオールの含有量が多く、野副先生たちも青森を訪れています。野副先生は加福均三先生から台湾ヒノキのテーマを指示されていますが、では加福先生はなぜ台湾ヒノキに着眼したのか、気になります。この辺は資料的にははっきりしませんが、下北のヒバに含まれる抗菌性を探る研究が始まったのは大正年間で、『国立林業試験場研究報告』に北島君三、川村実平、内田壮らがヒバ材の揮発油に含まれる抗菌性についての研究を発表していました。研究者であれば先行研究は必ず精査するので、おそらくこうした研究成果は、加福先生や野副先生たちも確認していたと思います。台湾ヒノキと青森ヒバ、そして日本のヒノキは名前こそ違いますが、みなヒノキ科に属するという点では共通しています。そういう意味では、後に世界を驚かせた七員環芳香族を発見する素地が青森ヒバにもあった、と考えることもできるかもしれません。