Kanako Kitahara's Blog
本日はクリスマスです。欧米では、教会に行き、家族とともに過ごすことが一般的です。
日本の場合、多くの人々がキリスト教徒ではないので、どちらかというとクリスマスイブの方がメインになっている感じがしますね。
しかし、日本という国で、多くの人がこうした各行事も含めたキリスト教を知るようになり、また中にはもちろんキリスト教の洗礼を受ける人も出てくるようになった背景には、明治以降に日本にやってきてキリスト教を伝える努力をした多くの宣教師たちの存在があったことは、言うまでもないことです。
本サイトのいろんなところで紹介している通り、弘前は日本のキリスト教の歴史を考える上で、重要な位置を占めています。その基礎を作った重要な人物の一人が、ジョン・イングです。イングがどうして日本に来たのか、また日本にいるあいだにどんなことをしたのか、そしてアメリカに帰った後のイングは、どんな生活だったのか、など、いろいろとお話しして行きたいことはあります。このような、日本を訪れた宣教師たちによるキリスト教文化の影響を研究することは、北原研の歴史部門のメインテーマですので、いずれ、このブログで少しずつご紹介します。
今日はクリスマスです。せっかくの特別な日なので、日本にキリスト教を広める上で、大きく貢献した宣教師ジョン・イングが晩年を過ごした風景を中心にご紹介したいと思います。
1870年に宣教のためにアメリカから中国に渡り、4年の宣教の後、帰国途中に日本に立ち寄ったジョン・イングは、横浜にいる間に弘前の東奥義塾の関係者と出会い、その依頼を受けて弘前で3年半、教育と宣教活動をしました。多くの人々に惜しまれながら1878年3月に帰国しましたが、その後まもなく夫人のルーシーを病で失い、フェリシアと再婚します。そして、宣教師を辞して農業に従事しました。
50歳の頃には、故郷のイリノイ州ベントン郊外にあるトンプソンビルに大農場を購入し、大農場主となります。ルーシー、フェリシアの二人の妻との間に授かった子どもたちの多くに先立たれ、このトンプソンビルで、最後に残った娘であるラヴィナ・イングに看取られてこの世を去りました。
この写真の手前の方にイングの自宅がありました。残念なことに火災で焼失しましたが、この木の右側に建っていたそうです。
イングの自宅から、細い道路を一本隔てて、メソジスト派の教会が建っています。(この写真は2010年当時です。現在、看板が新しくなっています)
ジョン・イングは、1930年6月に79歳の生涯を終えました。今は、イリノイ州ベントンにある墓地で、二人目の妻のフェリシア、娘のラヴィナとともに安らかに眠っています。日本でキリスト教が広く知られるようになった背景には、彼らを含めた多くの来日宣教師たちの、文字通りの心血を注いだ努力がありました。クリスマスの日に、少しだけでも思い出しておきたいものですね。