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藍とトリプタンスリンー「Région」(れぢおん) 掲載「ヒバと藍と青森―歴史の中に魅力を探る―」から

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あおもり創生パートナーズ株式会社さんの機関紙であるRégion に「ヒバと藍と青森―歴史の中に魅力を探る―」を文章を寄稿しました。字数の制限がありましたので、原稿を元に書き直したものをここに紹介していきます。3回目は「藍と抗菌性物質トリプタンスリン」です。言い伝えらえた藍の効用が数ある中で、なぜ肌への効果に注目したのか、について書いてます。

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藍とトリプタンスリン

ジャパン・ブルーの世界

近代に来日した英国人化学者のロバート・ウィリアム・アトキンソンが、日本で見た藍の美しさを「ジャパン・ブルー」と称賛したことはよく知られています。藍といえば藍色と思いがちですが、実際の藍葉には、赤や黄色など様々な色素が入っています。その相乗作用により、合成インジゴには出せない美しい色がでてきます。実際、私が徳島ではじめて近世の藍染を見せていただいた時は、あまりの美しさに息を呑みました。いまでも徳島には世界各地から藍染を学びにくる人がいます。日本の藍はそれほど美しく、染色の技術水準が高いということなのでしょう。

 

藍は古今東西を問わず世界各地で行われた染色技術でもありました。それぞれの気候土地に合う形で、さまざまな種類の植物から藍が作られています。こうした各地の伝統技術に対して大きな影響を与えたのが、19世紀ドイツにおける合成インジゴの開発でした。

夫の影響で藍の歴史も調べるようになった私は、二〇一九年にドイツのルートウィヒスハーフェンにあるBASF(ビーエーエスエフ)本社を訪ねてみました(詳細はこちら)。世界最大の科学企業であり、「We Create Chemistry 化学を創り出すのは我々である」との標語を堂々と掲げた、巨大な会社システムと工場群には文字通り圧倒されました。その発展を可能にしたのは藍の染料である合成インジゴの開発であり、ビーエーエスエフ社発展の陰に日本やインドを含む世界各地の藍染が大打撃を受けたという事実もあります。

BASF社ビジターセンターの入口と展示されている合成インジゴ

 

一度途絶えた天然藍染の手法は復興が難しく、そのまま合成インジゴを使っている地域も多々あります。たとえばビーエーエスエフ本社のあるドイツでは、かつてチューリンゲン地方の藍染が盛んでしたが、今は合成の藍を使って染めているそうです。しかし日本の場合は、また天然藍染にもどっていきました。合成インジゴの商品化で手順が簡素化されたにもかかわらず、わざわざ天然藍染に戻るということは、手間を厭わない日本人の気質や、深みのある美しさを好む美の感覚を示すような気がして、興味深いと思います。「藍染」が結果としての色だけではなく、その創り出すプロセスを含めて、日本人に好まれる何かがあるのかもしれません。

 

「新しさ」を藍に求めた近代の武士たち

藍染自体は日本各地で昔から行われていましたが、明治維新以降の近代に入ると、この分野に元武士たちが関心を持った時期がありました。鹿児島藩出身でのちに実業家になった五代友厚も大阪で藍の事業を開始しています。また弘前でも弘前藩士族たちが藍に取り組みました。元武士層だけではありません。武士以外にも藍に関心を持った人たちがいて、群馬県にもその資料が残っていますし、渋沢栄一が藍の事業で財をなしたことも、よく知られています。

これはおそらく根底に社会体制の変化があったと思います。藍染は各藩内で行われ、藩外への移出を禁止されることもありました。こうした近世の需要供給体制が崩れ、近代では誰もが手を出せる状況になりました。ただ、ここで何より大事なのは、明治初期に藍に取り組んだ武士たちは、それまでの藍染の方法ではなく、化学的知識が必要な「舶来の新しい知識技術」として藍から作る「青黛」に注目したことです。「青黛」は薬にも顔料にもなるものですが、従来の藍染より簡単で良質なものができるとして、当時の政府もこの技術を各地に伝えました。

青黛(せいたい)

藍染が盛んではなかった弘前でも、元武士たちが「青黛」を作る事業を起こそうとしました。その様子は青森県初の新聞である『北斗新聞』や、「府県勧業着手概況書」(土屋喬雄編『現代日本工業史資料』第一巻、労働文化社、1949)、また『勧農局年報』(内務省勧農局『勧農局年報 第二回』有隣堂、1881)に掲載されています。明治10年の時点で「青黛」は青森県内製造物の4位に位置し、全国に先駆けて純益金がでています。しかしその後の気候条件が藍の栽培に合わず、肝心の技術を用いる前に藍葉が収穫できなかったので、弘前藩元武士のトライアルは明治14年頃に終わりました。ただ、町人とは異なる、新しい知識による方法で藍の新規産業振興を目指したところに、知識層・かつ社会の指導者層としての武士の誇りを感じます。

 

 

トリプタンスリンの抗菌性と藍

弘前藩の武士たちが藍栽培を断念してから約130年後の2000年に、弘前大学教育学部で化学を担当していた私の夫である北原晴男が、藍にまつわる民間伝承のうち皮膚治療効果に着目したことから、藍の持つ抗菌性に関する研究が始まりました。この辺については、すでに本として刊行されているので詳細はそちらに譲ります(北原晴男監修『日英対訳 津軽の藍』弘前大学出版会、2012)。

藍にまつわる伝承はさまざまある中で、なぜ皮膚治療効果に注目したか。理由は非常に個人的なことなのですが、当時の私たちは娘のアトピーに悩まされていたからでした。これを何とかしたかったので、アトピーの原因菌のなかでも比重の大きい、皮膚常在真菌であるマラセチアフルフル菌にたいして、藍抽出物のトリプタンスリンがどのくらい効果を持つのかを調べることから始まり、弘前大学医学部の協力を得て用途特許としての出願をするに至りました。

藍は肌に良いという伝承は確かに各地にありますが、伝承のままであることと、実際にどの物質がどの菌に対して効果を持ち、それが人体にどう影響するのか明確にデータとして出すことには大きな違いがあります。

歴史研究者の目から見ると、この研究の存在は、それまで染色中心に考えられていた藍を、化学領域における生理活性物質の具体的な研究テーマへと視点を変えた、という点において意味を持ってきます。

藍に力を入れた地域は全国各地にありますが、染色および民間伝承の枠を超えるものではなく、弘前大学教育学部の研究がそれまでの藍に対する視点を変える起点となりました。コロンブスの卵のようなものですが、つまりここで、藍を活用するステージがかわったわけです。

そして現実に藍の本場とされてきた徳島でも、この研究に刺激を受けたことから、徳島県立農林水産総合技術支援センターの吉原均さんたちを中心に、藍の活用が活発に行われるようになりました。

弘前藩は決して藍染の歴史が盛んではなかったのですが、だからこそ柔軟に染め以外に視点を絞った取り組みができた、ということになるかもしれません。その上での、藍を通じた相互交流や活性化がでてくることが大事なのではないかと考えています。

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