北原研究所

ブログ

Kanako Kitahara's Blog

ブログ

アリベ神父と弘前

  • 歴史
  • 津軽
Pocket
LINEで送る

弘前カトリック教会の内部

弘前カトリック教会の内部

昨日のブログで、弘前とキリスト教の関係について紹介しました。これはプロテスタントです。しかし、明治7年から8年にかけて、弘前には、カトリックの神父も滞在していました。ジャン・アルチュール・アリヴェ(Jean Baptist Arthur Arrivet)神父です。

アリヴェ神父は、青森県出身でカトリックの洗礼を受けた岸篤と共に弘前に来たと言われています。外務省の記録では、東奥義塾の教師ということになっていましたが、実際には、アリヴェが来た時には、アーサー・C. マックレーがおり、その後任には昨日のブログでご紹介したメソジスト派宣教師ジョン・イングが着任したので、アリヴェは東奥義塾の教師になることはありませんでした。(マックレーについては、こちらをご覧下さいhttp://kitahara.co/資料との不思議な出会い/

先に本ブログ(2014.11.11)で紹介したアーサー・マックレーは、弘前で体験したことを後に本にまとめて、アメリカで出版しました(A Budget of Letters from Japan : Reminiscences of Work and Travel in Japan, A. C. Armstrong & Son, 1886)。その中に、アリヴェとの興味深いやり取りが出てきます。

 

ステンドグラスに描かれた岩木山

ステンドグラスに描かれた岩木山

アリヴェは東奥義塾に就職できなかったので、市内に「陶化学舎」という学校を作りました。そしてカトリックの宣教をはじめます。いろいろな教科を教えることで、生徒を集め、そしてキリスト教を伝えようと懸命に努力するのですが、その様子を、マックレーは冷ややかに観察して書いています。

アリヴェの学校は明治7年の秋には、うまく行きそうになりました。しかし、12月に、メソジスト派宣教師のジョン・イングが弘前に到着し、プロテスタントの宣教をはじめたとたん、一気に劣勢になります。彼の学校からは生徒がいなくなり、アリヴェは失意の中で弘前を去りました。あまり知られていませんが、明治7年から8年にかけての弘前では、カトリックvsプロテスタントの、ちょっとした競争があったのです。

 

下のエッチング画は、マックレーの本に掲載されていた、弘前市内の風景です。手前に見える洋風の建物は、弘前で最初に建てられた洋風建築と言われています。医師の佐々木元俊先生の家でした。この画の元になった写真の原板、およびエッチング版は、現在プリンストン大学に所蔵されています。

弘前のカトリック教会は、現在百石町にあります。しつらえられた祭壇も素晴らしいのですが、内部のステンドグラスもとても美しい教会です。

 

明治7年の弘前市内 (現在の市役所付近)

明治7年の弘前市内
(現在の市役所付近)

Pocket
LINEで送る