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ジョン・イングの贈り物ー明治8年のクリスマス

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ジョン・イング(1840-1920)

ジョン・イング(1840-1920)

弘前のリンゴは全国的に有名です。このリンゴは、アメリカ人宣教師が伝えたという、伝説めいた話があります。今日はクリスマスイブなので、このお話について書いてみたいと思います。

以前、仙台から高速バスに乗り、弘前駅近くになると、必ず次のようなアナウンスが流れました。

「リンゴは明治8年、外国人宣教師がアメリカから3本の苗木を持ってきて、津軽地方に広がりました」。

この外国人宣教師とは、アメリカ・インディアナ州出身で、1874年から3年半ほど弘前の東奥義塾で教師をしていた、ジョン・イング(John Ing, 1840-1920)のことです。そしてこのストーリーは、弘前ではとても有名です。

 

しかし、本当にイングがリンゴを伝えたか、となると、よくわからないのです。というのも、ジョン・イングは日本に来る前、アメリカから宣教のために中国に渡り、4年間を過ごした後に、帰国途中で日本に来ています。ですので、アメリカから苗木を持ってきた、というのは、少々ムリがあります。イング夫人が手紙の中で、青森のリンゴのことについて少し書いていたりしますが、それはいわゆる「和リンゴ」で、今の大きな甘いリンゴとは違うもののようです。

津軽のリンゴ

津軽のリンゴ

イングが故郷の父に宛てた手紙の中には、「お父さんが作ったリンゴを食べたい」と書いています。だから、もしかしたら、彼はリンゴが好きだったかもしれません。

今、資料から確実にわかるのはこの程度です。この辺のことについては、次の本をご覧下さい。

『津軽の近代と外国人教師』(岩田書院、2013)

 

資料的な裏付けははっきりしないのですが、広く伝えられる話として、明治8年のクリスマスにイングが出席者にリンゴを配り、皆、その美味しさに驚いたという話があります。この時のリンゴの種から津軽地方にリンゴが広まったとする説です。

たとえば、藤崎町でリンゴ栽培に成功し、株式組織「敬業社」の一人だった佐藤勝三郎は、イングからリンゴをもらい、その種を植えたと話していたといいます。実際に佐藤とイングに交流があったかどうか、これも資料的にははっきりしませんが、佐藤はリンゴ栽培に取り組む前に藍で一財産を築いた人物でした。そして、イングは津軽地方にいた時、藍染に興味を持ち、藍の栽培方法を習っています。だから、何らかの接点があったのだと思われます。(この辺のことについては、『日英対訳 津軽の藍』(弘前大学出版会、2012)をご覧下さい)。

また次のサイトもどうぞ。藍の歴史ー津軽の歴史文化と藍

 

イングが基礎を築いた日本基督教団弘前教会

イングが基礎を築いた日本基督教団弘前教会

明治8年のクリスマスは、津軽地方初のクリスマスでした。明治8年の6月にはじめて洗礼を受け入れた津軽の人たちは、きっと心をときめかせて、初めてのクリスマスを体験したことでしょう。

そんなとき、赤い大きなリンゴがプレゼントとして配られ、そこからリンゴが広まったとしたら。。。

こんな風に考えるのは、それはそれでとても素敵なことなのではないでしょうか。こうしたお話が残っているということ自体、ジョン・イングが弘前の人たちから敬愛されていた一つの証拠かもしれません。

 

ジョン・イングは近代弘前の発展に尽くしたメソジスト派宣教師でした。そして彼は、明治8年のクリスマスプレゼントのお話と共に、Jonny appleseed of Japan として、これからも日米交流の歴史のなかで語り継がれていくことでしょう。

岩木山麓に広がるリンゴ園

岩木山麓に広がるリンゴ園

 

 

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