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Kanako Kitahara's Blog

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弘前のパン屋さんと明治初期のパン作りの話

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弘前には美味しいパン屋さんがいくつもあります。弘前市本町にある「マタニ」さんもその一つ。

夕刻のマタニパン屋さん

夕刻のマタニパン屋さん

今日の夕方、パンを買いに行ったらほとんど売り切れていましたけど、でも焼きたてのパンが手に入りました。ラッキーでした。もちろん朝に焼きたてのパンがたくさん店頭に並ぶのですが、あっという間に売り切れるので、一日に何回も作っているようです。だから夕方に行っても、運が良ければ温かい焼きたてパンが手に入ります。運が悪いと、全部売り切れてます。。。

外から見た店内ーほとんど売り切れ状態

外から見た店内ーほとんど売り切れ状態

 

パンといえば、もちろん洋食の主食の一つ。東北地方の中でもきわめて早い明治6年から外国人夫妻が定住した弘前は、おそらく東北で最も早く洋食が入った地域の一つと考えて良いと思います。青森県内に住んだ最初の外国人は、今わかってる限りでは、三沢にやってきたアルフレッド・ルセーという人物です。ルセーは、戊辰戦争後に会津藩から青森県に移住した広沢安任が開いた牧場に雇われてやってきました。同じ頃に、広沢牧場にはイギリス人のマキノンという人物も来ました。だいたい明治5年くらいのことです。その直後に弘前には東奥義塾という学校にチャールズ・H. H. ウォルフ先生夫妻がやってきて一年くらい住んでいました。

マキノン、ルセーはどうやら単身だったようですが、ウォルフ先生は夫人もいたので、弘前で工夫して西洋的な料理を作っていたようです。

ウォルフ先生の教え子に、佐藤清明という人物がいました。佐藤紅緑の兄で、いわゆる『血脈』『佐藤家の人々ー「血脈」と私』を書いた作家佐藤愛子の伯父にあたります。佐藤家の人々は、佐藤紅緑、佐藤愛子、サトウハチロー、そして弘前在住の佐藤きむ先生など、文筆で名をなした人たちがたくさんおりますが、みな文才があったようです。この佐藤清明さんもその一人でした。彼が書いた、東奥義塾時代の回顧録でこんなのがあります。

「偶々先生[ウォルフ先生のこと]へ行っても理解の難しいものが多かった。パンを作るのに曹達を入れても脹れず大笑いしたことがあった」

佐藤清明氏が書き残した東奥義塾時代の話は、心温かくなるようなエピソードに満ちていますが、この一文をみても当時の様子がわかります。ウォルフ先生夫妻は、弘前に来て自分たちが食べるパンを作っていたようですし、それを見た東奥義塾生たちがまねていろいろやってみた様子もわかります。パンを作るといっても、イメージがわかなかった東奥義塾生たちに取っては「理解の難しい」ものだったのでしょう。

それから100年以上たって、市内のあちこちにおいしいパン屋さんができるようになるとは、想像もつかなかったことでしょうね。文明開化期の交流の一つと思います。

弘前に来た外国人からみた当時の日本食の様子や、弘前で洋食を確保しようとして苦労した話など、文明開化の「食」をめぐるお話にはいろいろおもしろいものがあります。それもいずれここで紹介して行きたいと思います。

最後に一言。弘前市本町の「マタニのパン」はおいしいです! これ、ほんとにおすすめです!!

お店の歴史を感じさせる包装紙と焼きたてパン

お店の歴史を感じさせる包装紙と焼きたてパン

 

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