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本多庸一先生の碑とお名前ー「ヨウイチ」or「ヨウイツ」?

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弘前にはキリスト教メソジスト派が設立した由緒ある弘前教会があります。

弘前教会の敷地内に、本多庸一先生を讃える碑がたっており、「東奥に生れし日本の国士 日本に出でし霊界の大人」と記されています。

本多先生の記念碑(弘前教会内)

本多先生の記念碑(弘前教会内)

本多庸一先生の業績はいまさらここに多言を要しないかと思われます。明治のキリスト教界を代表する指導者であり、盟友押川方義が「天下の重きを托し得る」人物、すなわち「国士」と評したことに代表されるように、様々な意味で大きな人物としての評価を得ていることはよく知られています。

今日は、この「霊界の大人」である本多庸一先生は、どういうお名前だったのか、という少し不思議な疑問について書いてみます。というのは、本多先生のお名前は、実はどのように読むのか、はっきりしていなかったところがあるからです。

本多先生についての研究で必読書と言えるのは、青山学院大学の気賀健生先生による名著『本多庸一』(青山学院編、1968)ですが、この本の中でも、気賀先生は本多庸一先生のお名前が「ヨウイチ」なのか「ヨウイツ」なのかわからないことを述べられています(pp18-19)。

気賀先生がこの本を書かれた時点では、本当にはっきりしていなかったようですが、その後気賀先生は、本多先生本人によって「Yoitsu」と明記された、明治20年代の英文書簡を発見されたことを、たしか1994年頃の弘前での講演で述べられております(時期がはっきりしなくてすみません)。これは非常に興味深い内容です。というのは、本多先生は英文に堪能な方で、幾つかの英文書簡も残されていますが、たいていは、Y. Honda という署名になっているからです。

そして、さらに弊社専務は、自分の研究過程で実に興味深い資料に出会いました。これは、アメリカ、インディアナ州グリーンキャッスルにあるデポー大学に残されている、東奥義塾の五代目外国人教師ロバート・F. カール(Robert F. Kerr)先生のノートです。カール先生は明治12年に東奥義塾の教師としてインディアナからやってきますが、一年後、東奥義塾の資金が途絶したことから、弘前を去ります。その際、皆が別れを惜しむメッセージを書いたノートがあり、それをカール先生が大切にしていて、今はデポー大学の保管資料になっています。

その中に、本多先生からカール先生に当てたメッセージがありました。以下は『洋学受容と地方の近代ー津軽東奥義塾を中心に』(岩田書院、2002)グラビアページからの引用です。

本多庸一先生のサイン入り英文

本多庸一先生のサイン入り英文

はっきり「Honda Yoichi」と書かれています。

ということは、本多先生ご自身が」「ヨウイチ」だったり「ヨウイツ」だったりしているわけですね。

ここから先は推測ですが、もしかしたら、本多先生のご本名は本当に「ヨウイチ」であったかと思われます。しかし、それがやがて「ヨウイツ」にかわったのかなと。

それは、今ほど標準発音になれていなかった当時の東北の人間の発音が、時に聴き取りにくかったりしたこともあるかもしれません。また気賀先生がかつて弘前の郷土史家である成田末五郎氏から聞いた話として、弘前藩の士族なまりでは、「庸一」「秀一」のように「イチ」で終る名前は必ず「イズ」と発音したということも書かれています(前掲書P19)。したがって、かりに「秀一」さん本人が「シュウイチ」と発音していても、訛を聞き慣れていない人に取っては「シュウイヅ」に聴こえただろうということになります。

本多先生にも同じようなことがあったのかもしれません。いずれにしても、英文資料が残っていたことからわかる事実の一つです。

弘前藩士族に限りませんが、昔の人は、幼名と成人してからの名前も変わるし、また人生の転機に改名したり、あるいは養子縁組も多かったり、ということで、名前がカメレオンのように変わってしまうケースも少なくありません。その変化の途中の名前を見ただけで、誰かわかったりすると、これまたこの地方の近代史を学ぶ中での楽しみの一つになったりします。

今日は、本多先生のご功績ではなく、お名前を取り上げました。数々のご功績、および夫人のサダさんも実に学ぶこと多い人生を過ごされているので、それについてもいずれこのブログで書いていこうと思っています。

 

 

 

 

 

 

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