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津軽の染師、川口清吉さんのこと

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今日は、明治の津軽地方弘前で藍染工場を開いた川口清吉さんのことについて書いてみます。

藍染は世界各地で行われ、それぞれの風土に合う形での天然藍染が行われていました。日本の場合は、徳島の藍染技術が非常に優れており、「阿波藍」としてよく知られています。開国以来、横浜にやってきた外国人は、日本人の着用している衣服の鮮やかな藍色を称賛し、「ジャパン・ブルー」という言葉も生まれました。

津軽地方でも、藩政時代から藍染が行われていました。この辺については、近世史研究者の市毛幹幸さんのすぐれた研究があります。弘前大学出版会から刊行された『日英対訳 津軽の藍』に掲載されていますので、ぜひそちらをご覧下さい。(弘前大学出版会『日英対訳 津軽の藍』のページへどうぞ

現在残されている当時の藍染品をみると、弘前の藍染技術はそれほど高くなかったかもしれません。それは、寒冷な気候とも関係していた可能性があります。天然藍染は発酵を主体とした製法だからです。

でも、津軽の人たちも藍染に熱意をもっていました。明治になっても、藍で地域おこしをしようとした人たちがいたことは、このHPの歴史のところでご紹介しています。(「津軽の歴史文化と藍」のページへどうぞ

それぞれの地域に、たくさんの人たちが住んでいて、そしてかけがえのない人生を送っていたということを、歴史を研究するとよく感じます。次の写真は、弘前で明治期に染工場を開いた津軽の染師、川口清吉さんとその息子さんたちです。

川口清吉さんは、明治30年1月、弘前市の北川端町に「川口染工場」を設立しました。ただ、青森県の記録では「万延元年設立」とあるので、古くからの藍染屋さんだったようです。もしかしたら紺屋町など、他の場所で藍染をしていて、この時に北川端町に移ってきたということだったかもしれません。

近代化が進み始めた青森県の統計資料に染色関係が出てくるのは、明治31年からですが、33年から37年までは、「製藍」として生産量及び価格の記録があります。川口染工場では、5人の職人がいて、優れた藍染をしていたようです。川口清吉さんは、明治31(1898)年の第15回津軽産業会の品評会で、3年以上一等賞を獲得した場合に与えられる「名誉賞」を受けています。

しかし、ちょうどこの頃、ドイツで開発された合成インジゴがBASF社の大量生産化により、世界中に出回ることになります。世界各地の天然藍染が打撃を受けますが、日本の天然藍染も壊滅的な状態となりました。

もちろん、津軽の川口さんたちも藍染を続けるのは難しくなったのかもしれません。明治30年代、川口染工場は、津軽地方唯一の藍染工場として記録されていました。しかし、明治40年代には、その記録からも消えています。

この写真は、川口清吉さんの右となりにいる、息子さんの川口亮吉さんの御子孫の方からご提供いただきました。ですので、もし、なにかでお使いになりたいときは、こちらにご連絡いただければと思います。連絡先は<info*kitahara.co>です。(*を@に変えてください)

川口清吉さんと息子たち(左から賢吉さん、亮吉さん)

川口清吉さんと息子たち(左から賢吉さん、亮吉さん)

 

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