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宣教師の妻として生きたルーシー・イングの生涯

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今日は、明治初めに弘前に滞在したアメリカ人、ルーシー・ハウレー・イングについて少し書いてみます。弘前にリンゴを持ってきたという伝説のアメリカ人、ジョン・イングは、妻のルーシー、息子のジョニーと3人で弘前に来ました。

ジョン・イングとジョニー、ルーシー

ジョン・イングとジョニー、ルーシー

ルーシーは1837年9月27日に、アメリカ、インディアナ州のブルーミントンに、牧師の娘として生まれました。1858年に女性宣教師を輩出したマサチューセッツ州の名門女子校、マウント・ホリオークを卒業し、インディアナ州で教師をしていました。

1870年6月30日、ルーシーは、ジョン・イングと結婚します。ジョンは1840年8月22日、メソジスト派牧師であったスタンフォード・イングの長男としてイリノイ州に生まれ、一度軍隊に入隊して南北戦争に従軍したのち、インディアナ・アズベリー大学で学んだ人物でした。

結婚後すぐに、イング夫妻は、伝道のために中国に渡りました。それから1873年までの4年間、懸命に伝道活動をしますが、なかなか受け入れてもらえず、洗礼を受けた中国人はわずか4人。その中でルーシーは、男の子ジョニーを授かります。しかし慣れない異国での出産や子育てで心身が疲弊していったようです。

帰国を決意したイング夫妻は、アメリカに帰る途中、日本に立ち寄り、横浜に滞在します。それは、アメリカへの帰国の船を待つためでした。しかしその僅かな間に、イング夫妻は授かった娘のヘレン・ルイーズを喪いました。その悲しみの様子は、母国の両親に宛てた手紙の中で切々と語られています。

ヘレン・ルイーズは横浜の墓地に埋葬されました。一説によると、宣教師は伝道先で親族が亡くなった場合、魂は天の神様の所に、体はその地に返すとの考え方だったとされます。愛し子のヘレンを母国まで連れて帰ることは出来なかったのです。

そして傷心の日々を過ごしていたちょうどその頃、イング夫妻は弘前の東奥義塾に来てくれる教師を捜していた学校関係者と出会ったのでした。東奥義塾のように、日本の北奥にある学校に来てくれる外国人を捜すのはなかなか大変なことで、東奥義塾の人たちは、良い先生を求めて苦労していました。

弘前に来てほしいという東奥義塾の人たちに出会ったイング夫妻は、それを宿命的なことと感じたようです。自分たちがこの話を受け入れると、もう少し日本に滞在することになります。それは、ヘレンの側にいなさいという、神様の啓示のように受け取ったからです。

イング夫妻が弘前に来た背景には、こうした事情がありました。

そして、弘前に来てから3年半、イング夫妻は東奥義塾の生徒たちの英語力を鍛え、インディアナ州グリーンキャッスルにあるイングの母校、インディアナ・アズベリー大学(現在のデポー大学)に留学生を送り出し、その一方で弘前の人たちにもアメリカの文化を伝え、大活躍します。弘前にリンゴを伝えたという伝説めいた話は、事実とはやや違うようですが、もともとは、こうした彼らの活躍から出てきた一種のエピソードでした。

しかし、日本に来る前から体調を崩していたイング夫人ルーシーは、3年ほど過ぎた頃、本当に体調が悪くなったようです。とうとう帰国を決意し、1878年3月に弘前を離れます。夫妻を慕っていた弘前の人たちは、降りしきる雪にもかかわらず、いつまでもその後を追って離れようとせず、とうとうルーシーが「もう、帰りなさい」と手を振り、人々は涙の中にじっと見送りました。

ルーシーの健康は、帰国した後も快復しませんでした。そして 1881年4月15日、ルーシーは愛娘ヘレンの待つ天国へと旅立ちます。葬儀は、インディアナ州テレホート(Terra Haute)の墓地で行われました。ちょうど当時インディアナ州に留学していた東奥義塾出身の佐藤愛麿、珍田捨己、川村敬三、那須泉の4人は葬儀に駆けつけ、ルーシーが葬られる時に弔辞を述べています。

イングは、ルーシーが亡くなってから3年後、フェリシア・ジョーンズと結婚しました。そして残りの生涯をイリノイ州ベントン郊外のトンプソンビルで農場を経営して過ごし、1920年6月4日にこの世を去りました。今、ジョン・イングは、ベントンの墓地に、フェリシア、娘のラヴィナと共に3人で眠っています。

でも、ジョン・イングとともに宣教のために東洋で苦労したルーシーは、一人でハウレー家の墓地で眠っています。下の写真は、ルーシーが眠っているハウレー家の墓地と、そしてルーシーの墓碑銘です。

ハウレー家の墓地

ハウレー家の墓地

 

ハウレー家の墓地の中にあるルーシーの墓碑銘

ハウレー家の墓地の中にあるルーシーの墓碑銘

他の多くの地域と同じように、津軽の歴史にも、たくさんのドラマがあります。ジョン・イングの名前は、弘前だけではなく、近代日本のキリスト教受容を語る時、必ず出てきます。日米の文化交流にも大きな貢献がありました。そしてそれは、子どもを亡くすという大きな悲しみにも耐えて、神の福音を伝えるために、ジョンと共に努力したルーシーの力があってのことでした。今の弘前で、ルーシーのことを知る人は少ないと思います。ですからここにルーシーの名前を記し、あらためて感謝の祈りを捧げたいと思います。

そして最後にこの写真について一言。

この写真は、ベントン出身でデポー大学(DePauw University)に学んだカレン・ミュリン(Karen Mullin)さんが撮影してくれました。カレンさんは、ベントン出身で、やはりデポー大学の前身校であるインディアナ・アズベリー大学で学んだ、ジョン・イングの後輩に当たります。さまざまなご縁で出会い、イングの調査を手伝ってくれました。その大きなご協力のことを、ここに感謝の言葉とともに、記しておきたいと思います。

 

 

 

 

 

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