Kanako Kitahara's Blog
今日は、津軽の歴史のお話です。
これは、慶応義塾大学の三田演説館です。
日本の演説はここから始まったとされています。福沢諭吉は、それまでの日本に演説の方法がないため、活発な意見交換が出来ないことを憂いて、三田演説会を企画したとされています。そして、最初は「演舌」としていました。
この「演舌」は、自由民権運動の広がりにともなって盛んになり、演説や演説会は全国で行われるようになって行きました。
弘前には、東奥義塾という学校があり、これは名前からわかるように、設立時に慶応義塾の影響を受けたとされています。
実際、明治5年に開校した頃は、いろいろな意味で慶応義塾の影響を受けていました。しかし、東奥義塾には外国人教師が着任したことから、徐々に慶応義塾の影響が抜けてきます。
弘前では、東奥義塾から「演説」の方法が広まりました。しかし、それを教えたのは、福澤の影響を受けた人たちではなく、アメリカ人宣教師、ジョン・イングでした。イングは、自分の母校であるインディアナ・アズベリー大学のやりかたで、東奥義塾の生徒たちに、演説やディベート(討論)の方法を伝えました。そのため、東奥義塾では弁論活動が活発になり、やがて自由民権運動の中心となって行きました。
つまり、津軽地方での「演説」は、慶応義塾の影響というよりは、アメリカ人宣教師の影響で広がって行ったのです。
明治時代には中央集権化が進みました。ともすると、いろんなことが東京から地方に流れたように考えがちになります。しかし、中には東京からの影響に関わらず、独特の文化を育んだ地域もありました。
宣教師を通じたアメリカとの交流の中で、弁論活動が活発化して行った津軽地方は、その一つのケースだったのです。