Kanako Kitahara's Blog
今、津軽では雪が降り続いています。津軽の歴史文化は雪との関係を抜いては語れないかもしれないと思うくらい、雪(&寒さ)はいろんなところに影響していました。
津軽地方の人々は弘前藩時代から若者を育てるために、外部からさまざまな教師を招きました。明治以降も、たとえば軍隊の喇叭を指導するため、明治3年7月に「吉野芳次郎」他6名を雇っています(『津軽承昭公伝』より)。
明治4年正月には、藩学校の体制を刷新して、静岡や慶応義塾から教師を4人呼びました。明治13年から14年にかけては、津軽ではじめた藍栽培の指導をしてもらうため、徳島から桑井貫二と吉田巌という2人を教師として迎えています。
日本人だけではなく、明治6年に藩学校をもとにして開校した東奥義塾に、13年までの7年間で5人の外国人教師を雇いました。
地理的にも恵まれない地域であったため、教育で地域の活性化を志した地域であったといえるかもしれません。
ただ、この雇われてきた教師たちの貢献と、津軽の寒さはいくらか関係しているところがあります。というのは、たとえば明治4年に静岡から教師を招くため、弘前藩士が何度も静岡藩を訪れて、教師としてきてくれるようにとお願いをしますが、意中の先生には「寒さ」を理由として断られてしまったりします。また、引き受けて来てくれた教師も、中の一人は寒さに堪え兼ねて帰ってしまいました。
外国人教師たちも、最初のウォルフ先生は元々ドイツ人でアメリカに帰化した人物と伝えられているので、寒さには強かったのだろうと思われます。彼は1年の任期を満了しました。しかし、2代目のマックレー先生は、アメリカ人ですが、父の仕事の関係で香港で生まれ育ったためか、最初から津軽の冬を警戒して「4月から11月まで」の契約でした。
3代目のイング先生から、デビソン先生、カール先生までは、それぞれ任期をつつがなく務めていて、特にイング先生は3年以上も滞在します。カール先生は学校の財政事情で雇用継続できなくなったことから解雇となりアメリカに戻りますが、いわば学校の事情なので、彼自身は特に問題なく弘前で教育に貢献した訳です。
で、この3人は、共にインディアナ州のグリーンキャッスルにあるデポー大学(当時はインディアナ・アズベリー大学)出身でした。そしてグリーンキャッスルはだいたい北緯40度くらいに位置していて、弘前とほぼ同じ緯度です。気候条件がそれほどかわらなかったため、寒さが問題になることはなかったのかもしれません。
せっかく教育の志を持って弘前に来ても、寒さで体を壊してしまっては貢献もできないわけで、寒さに堪え兼ねて帰った先生たちも、きっと無念だったと思います。
お雇教師が日本の近代化に貢献したというのはよく知られています。一括してイメージしがちですが、個々の教師にそれぞれの人間的ドラマがあります。あまり注目されないことですが、実は彼らの経済的状況も少なからず影響している場合があります。そして、気候条件も実はそれなりに影響を持つ要因だった、ということも考えておきたいことの一つでは、と思ったりしています。