Kanako Kitahara's Blog
『青森県女性史ーあゆみとくらしー』の仕事がきっかけとなり、青森県内の女性史関係の研究も手がけるようになりました。その過程で数々の魅力的な女性に出会いました。
その一人である「成田らく」さんについて、2003年に青森県男女共同参画センターの依頼で書いた文章を転載します。(お問い合わせはinfo@kitahara.co までどうぞ)
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成田らくは、青森県の明治初期教育事情を知るうえで、きわめて貴重な教育資関連料を残した女性である。
らくは、弘前藩の御目付役もつとめた成田家の第十三代茂の長女として明治3(1870)年4月5日、西津軽郡山田村に生まれた。東奥日報主筆として幾多の論説を書いた成田鉄四郎は、叔父にあたる。
らくは、明治10(1877)年1月から15年9月まで山田小学校で学んだ。小学校時代は学業優秀につき、何度も表彰を受けている。明治18(1885)年3月に青森県女子師範学校入学、5月に卒業して、明治20(1887)年9月に弘前女学校に就職した。同校離職日時は不明だが、明治22(1889)年12月16日時点の職員表では、副教頭の次に名前が記載されている(『弘前女学校歴史』p.26.)。明治24年7月20日に、明治15年よ
り成田家の養子となっていた珍田有孚の次男である正雄と結婚、その後は家庭に入り子育てに専念した。津軽出身の外交官として高名な珍田捨己は義兄にあたる。
成田らくは、教師として活躍した時期はそれほど長くなく、残りの生涯を子育てに力を注いだ人物である。しかし彼女は、自身が学んだ学習資料を多く残した。これらの資料は、山田小学校在学中から弘前女学校教師時代にかけての学習帳が主で、算数、物理、英語、歴史、作文、小学女礼式、教育指導法などの内容である。このうち、特に明治18年に廃校となった青森県女子師範学校に関しては、これまで関連資料がほとんどなかったため、らくが残した卒業証書を始め、師範学校時代のものと特定できるノ-ト類は、同校の内実を知る上で貴重である。また、ノート類の他にも、演説に関する記録などもあり、明治21(1888)年12月13日柾木座での婦人大演説会の様子を伝える記録は、現在、他にその例を見ない資料となっている。
これらの資料は、現在もらくの子孫が居住する神奈川県逗子市に大切に保管されている。こうした明治初期の貴重な資料類が今に伝わっていること自体、らくの生涯を象徴している。戦火が激しくなり、やむを得ず疎開を強いられた成田家の人々は、家財道具や自らの私物よりも、らくの残したノートなどの資料類を優先して疎開先に持っていったという。さらに、「母の教えは成田一門の骨格である」と母を慕う子供たちによって、追悼の書も編まれて今に伝わっている。らくは、こよなく子供たちから尊敬された女性であった。
教師として活躍した時期がごく短かったらくの人生は、対社会的な活動度合の視点からみる女性史の上には浮かびにくいかもしれない。しかし、誠心誠意子育てに力を入れ、子供たちから尊敬され、結果として数々の貴重な資料が後世に残ることになったその生き方は、過去の女性の生き方を見るうえで、一つの視点を与えてくれている。すなわち、女性の生き方にきわめて制約が強かった明治という時代に、あらがわずに生きた、有能でしなやかな女性の姿を、今に伝えているように思われるのである。