Kanako Kitahara's Blog
かつて、水木音弥さんという声楽家がいました。
1881年6月16日、青森県津軽地方の大鰐に生まれ、明治30年代にアメリカに渡った人物です。シカゴのインターナショナルカレッジで学び、ベルカント唱法を得意とするバリトン歌手として、シカゴやニューヨークで演奏活動を行ないました。
カーネギーホールでリサイタルを開いたとも伝えられています。演奏だけではなく作曲にも力を発揮し、讃美歌集にもその作品が残されています。昭和4年(または3年?)に帰国した後、東京で声楽の指導に携わる傍ら、作曲家清瀬保二氏を伴奏者として、故郷の津軽地方で何度かコンサートを開きました。
『青森県史資料編 近現代4』には、第4章「大衆社会の光と影」第1節「大衆文化の開花」で、水木音弥のコンサートの様子が紹介されています(p288など)。たとえば、1932年10月15日、水木音弥氏は、青森市浦町の女子師範講堂において、独唱会を開きました。その演奏会開催を知らせる記事(『東奥日報』1932.10.9日付夕刊)をみると、どのような曲を演奏していたのかわかります。
シューベルトの菩提樹、ムソルグスキーの「蚤の歌」などに混じって、「花の乙女」や「村の祭り」というタイトルで、水木氏自身が作曲した歌も披露されています。同世代の作曲家だった小松耕輔作曲の「泊り舟」もプログラムに入っていますし、また伴奏者だった清瀬保二氏のピアノ独奏も組み込まれて、なかなか盛りだくさんです。
『青森県史』には、以上の情報が入っていますが、ここでは、さらに少しその後の情報を付け加えておきます。
水木氏は、演奏活動をしばらく続けた後、戦渦を避けて青森県三戸郡戸来村に疎開し、そのままそこに定住しました。そして地元の戸来中学校などに勤務し、昭和29年にこの世を去りました。戦後、東京に出て、声楽家としてレコードを出したいという強い願いを持っていたようですが、残念なことにそれは叶わなかったようです。
水木氏には、モモヨさんという八戸出身の奥様がいました。モモヨさんは、東京女子高等師範学校を出られた才媛で、晩年、『春まだ浅き頃に』という本を残しました。人生の回想記ですが、とても多くの想いや、そして貴重な情報が入っており、懸命に生きた人生のご様子が浮びます。この本を手に取るたびに、胸を打たれるものがあります。
北原研究所では、歴史部門として、こうした地域の文化史研究を進めて行きたいと考えています。
この水木モモヨさんの著書も、中に貴重な写真などが掲載されていて、戦前の青森の文化の様子を知るのにも役に立つ情報が入っています。なによりも、とてもひたむきで素敵な女性だったのだということが伝わってきます。
いずれ、その奥様の著書の内容も含めて、水木音弥さんという芸術家についても、在米時のことがらなど、これまで知られていないことについての研究を進めて、ここで紹介して行きたいと思います。